縁起によると蓬莱山普光寺は今からおよそ一三六〇年前の白雉二年(六五一年)法道仙人によって創建されました。
現在は平安仏教の比叡山延暦寺を本山とする天台宗に属しますが、元は奈良仏教の法相宗に属していたようです。
鎌倉時代に創刊された「峰相記」によると、播磨六山の一つに数えられており、さらには開基においても法道仙人説・徳道上人説の二説が浮上しています。
峰相記によれば、神亀六年三月二日、官符宣を下されて、長谷寺の観音像を造立した時の第二の木切れにて十一面観音を造り、近衛大将藤原房前の御願によりたてられました。
その後、徳治元年十二月十四日の火災により、講堂・常行堂・三重塔・鐘楼堂・経蔵などすべて焼失しました。
以来四十年の歳月をかけて再建をはかり、貞和三年十月二十日に造営供養を終えたという記録があります(続群二八上)。
普光寺の鐘は、「播州普光寺の鐘、文明十三年六月十四日」という造立銘があり(日本古鐘銘集成)昭和十三年一月八日修正会の火の不始末により焼失しました。
永禄九年八月十二日、付在田元長父子の掟 状案によれば、在田氏が普光寺の寺域を明示 して、守護不入の特権を認めている(寺領五〇〇石)。
天正十年兵火にかかり、堂宇・旧記類を焼失したが、慶安元年に河内村内に五〇石の朱印寺領を与えられた寺領は、豊臣氏蔵入地・慶長五年、姫路藩領・幕府領・再び姫路藩領を経て延享四年からは一橋家領となる。
不動堂の跡地で発見されたもの。直径約25pを測る円筒の5箇所に透かし窓を設け、丸みを帯びた笠をとりつける。頂部は破損しているが宝珠があったものと推測される。文禄4(1595)年に「英賀之住人助太郎」によって寄進されたとする旨のヘラ書きがのこる。
中世の紀年銘をもつ瓦燈は例がなく、きわめてめずらしい。
普光寺境内地に入りまず右手山際に六地蔵尊が並ぶ。その横に『金輪聖王下馬』と書かれたかなり苔むした石碑がある。
どんなに偉い王であっても、ここから先は馬から降りなければならないということを意味する。
昔の繁栄を物語っている。
加西市の文化財に指定されており、塔の下には一字一石の法華経が納められている。